医者の話

学生の頃一度だけ診てもらった医者の話だ。


当時学校での人間関係にかなり悩んでいて、すっかり病んでいたのを見かねた親が、いい医者がいると紹介してくれた。


噂によると、診察のしかたがかなり変わっている医者だった。

心療内科だがカウンセリングが全くなく、代わりに嫌なことをオブラートに包んで飲み込むことで解決してくれるという。

詳しいことはわからないが、とにかく悩み事や嫌な事を聞いて包んで飲み込んでくれるらしい。

その医者に診てもらった人は、今まで何に悩んでいたのだろうかと首を傾げてしまうほど、清々しい気持ちになるとのこと。

評判がとてもよく、予約を取るのも一苦労だった。


どんな診察を受けるのだろうか。

想像がつかず、そわそわしながら病院へ向かった。

調べた住所に着くと、「心療相談所」という看板が立っていた。病院にしては変わった名前だが、評判がいいから大丈夫だろうと思い、扉を開けた。


受付はおらず、代わりに「ご予約の方は順番にお呼びしますので、待合室でそのままお待ちください。」という張り紙が貼ってあった。

どうやら順番が一つ前の人が診察を受けているようだった。

少し待っていると患者は清々しい顔をして診察室から出て来た。あと少しでこの人みたいに清々しい顔が出来るのか、期待に胸を膨らませていていると名前を呼ばれた。


診察室のドアを開けると目に飛び込んできたのは、顔色が真っ青になって今にも吐きそうになっている医者だった。


医者は目を合わせるなり、開口一番「私を煮沸消毒してくれ!」と言った。

いきなりのことで理解が出来ずに止まっていると、「さあ早く!私に煮沸消毒を!」と懇願してきた。


戸惑いながらも「そんなひどいことなんて出来ません!」とはっきりとした口調で言った。

「ならどうすればいい!?私はとんでもなく悪いものを飲んでしまった!このままだと私は大病を患ってしまう。さっきの患者のせいだ!」

「今までたくさんの患者を診てきたのではないですか?症状も事情も何もかもが違う患者を。患者の目の前でパニックを起こさないでください!」

初めて医者に対して怒った。


「一体何があったんです?患者の私が先生に話を聞くというのはおかしな話かもしれませんが。」

「いや、聞いてくれ!さっきの患者が診察室に入るなり、過去に人を殺めたことがあると言って泣き始めたんだ!私が話を飲み込む準備をする前に!」

患者から医者へのカウンセリングが始まった。


「私は幼少期から悪いことをたくさん飲み込んできた。」

「飲み込んできたというのは...」

「文字通りだよ。例えば両親がケンカしたと聞いて飲み込んだとしよう。飲み込んだ後、両親の記憶からケンカという記憶が消えるんだ。」

「つまり、ただ状況を受け入れるということではなく、記憶ごと丸ごと飲み込むことが出来る...ということは先ほどの両親のケンカの場合、両親からケンカをした記憶は消えてしまう... そういうことですか?」

「ああ、その通りだ。」

「記憶から完全に消してしまうなんて嘘のような話... 」

「嘘に聞こえるかもしれないが、飲み込んだ後は皆無かったかように持っていた悩みや嫌なことを口にしなくなる。」

「なるほど...。飲み込んだ後は何か体調に変化はあるのでしょうか?」

「悪いことを飲み込んだら、熱を出したり風邪を引いたりする。でも良いことを飲み込んだらすぐに治る。

「飲み込んだ内容の良し悪しが、体調の良し悪しに関わる。悪くなっても良いことを飲み込めば問題ないということですね?」

「問題はないのだが...本人たちの記憶からは無くなるが、こちらの消してしまった罪悪感は消えることが無い。それなら悪い記憶だけを消して、私の体調が崩れる方がよっぽどましだ。」


医者はため息をつき、再び話始めた。

「学生までは相談に来る友人は皆、人間関係に悩んでいた。だが、社会に出ると悩みは深刻になっていき、いつか飲み込めなくなる日が来る。その日が来てしまうと、私の体も危ない。だから医者になる勉強の傍ら、自分で研究してオブラートを作ったんだ。」

「オブラート?薬とかを飲みやすくする、あの紙のようなものですか?」

「そうだ。オブラートに包めば、どんな悪いことを飲み込んでも、体内に吸収されにくくなる。」

「自分の体を守りつつ、どんな相手の悩みを聞くことが出来るようになりますね。」

「だが実際医者になってここを開いてからも、相談に来る人が持ってくる悪いものはみんな人間関係の悩みばかりだ。オブラートの用意もしてはいるものの、体内には人間関係の悩みの耐性はついているから、今まで使ったことがなかった。」

「でもさっきの患者さん...」

「何年もここでたくさんの患者を診てきたが、殺人の悩みは初めてだ。重すぎて、オブラートの準備をする前の私はうまく飲み込めなかった。それが今、私の体を蝕んでいるんだ。」


医者の呼吸が乱れてきた。

「もう私は病気に冒される運命だ。君が最後の患者でいてくれてよかった。話を聞いてくれてありがとう。」

「そんな!あなたはこれからもたくさんの人を救っていく、必要な人です!なんとかしてでもあなたを助けたい!」


すぐに答えが浮かんだ。

「良いことを飲み込めば体もよくなるんですよね!?私自身の今までの良かった記憶を思いつくだけ言えば先生は助かりますよね!?」

「ああ、しかし君の中から過去の良い記憶がなくなってしま...」

「それでも構いません。無くなったものは取り戻せませんが、良い記憶はこれから自分で動いて作っていけるものですから。ただ...」

「なんだ?」

「私は患者で来ているのに、診察がまだ始まっていません。私の悩み事は学校での人間関係です。回復されたら診察してもらえませんか?」

「もちろんだ。人間関係の悩みなら容易い。回復すればすぐに診察しよう。」


私は生まれてから今までの思い出の中で覚えている限りの嬉しかった出来事を話した。

1時間程話していると、先生の呼吸が整い、表情が穏やかになってきた。


「体がかなり楽になってきた。助けてくれてありがとう。」

「良かった... 体調が戻り始めて良かったです!」

「ただ3時間程寝かせてくれないか?それで完全に回復だ。3時間経ったら起こしてくれ。待合室に置いてある雑誌や本は自由に読んでいいから。」

「はい!」


診察室に先生を残し、待合室に戻ってきた。

先生の体調が回復し始めていて本当に良かった。

先生を起こすまでの3時間、本棚にあった分厚い推理小説を手に取って読み始めた。

最後の種明かしは見事だったと、推理小説をたっぷり堪能していると、3時間が過ぎていた。


再び診察室へ入ると先生は熟睡していた。

「先生!ご無事ですか?」

大きな声で数度呼びかけると、こちらの声に気づき、目を覚ました。

「おかげさまでもう大丈夫だ。救ってくれてありがとう。」

私は自分が先生を回復させることが出来た嬉しさに、胸がいっぱいになった。

「さあ診察を再開しようじゃないか!」

先生も元気そうだ。


「ありがとうございます!私が悩んでいるのは... ええと...」

あれ?思い出せない。

「君がさっき良いことをたくさん話していたときに、一緒に悪いことを飲み込んでしまったのかもしれないな。」

「私何か話してましたっけ?本当に思い出せない...でもとにかく私の悩み事は解決しました!先生のおかげです!本当にありがとうございます!」

「解決していたようで良かった。」

「あの、お会計は...」

「お金は結構。そもそも診察をしていないからね。」

「そういやそうでしたね!完全に忘れていました。ありがとうございました!」


もう悩むことなんてない、これからは前を向いて生きていこう。私は清々しい気持ちで病院を後にした。

 

 

「やれやれ、人は医者だという人の言うことを聞くと、なぜオブラートで悪い記憶を消すといった、ありえない話をしても人はすぐに信じてしまうのだろう?私と友人が茶番のようなやりとりをしているだけなのに。世界はこんなに広いのに、ちっぽけな悩みに苦しめられている人が多すぎるな。まあ少しでも人の役に立っていればそれでいい。さあ今日は後2回。友人にまた偽の殺人犯を演じてもらおうじゃないか!」


誰もいない偽の診察室で、医者のふりをした人が呟いた言葉なんて私は知る由もない。

今日も悩みを忘れたい人たちは、次々と心療相談所という名の偽病院を訪れている。

嫌なこと、悩んでいることを飲み込んでもらい、綺麗さっぱり忘れるために。