心のお洗濯

壁際は、「自己肯定感が低すぎる」をよく使う。

 


別に人の興味をひきたいわけではなく、紛れもない事実である。

15年以上この価値観に縛られている気がする。

 


もうすぐ楽しいことがたくさんあるのに、このままモヤモヤしてていいのか?

直感でも冷静に考えてもノーだ。

 


というわけで心のお洗濯をこの場でさせていただきたい。

 

 

 

小学生まで遡る。

 


5年生の頃に、何もしていないのに一ヶ月間ぐらいクラスメイト全員から無視をされたことがある。

静かに隅っこでいるだけだったので謎すぎた。

 


そこまで別に自己肯定感が高かったわけでもないが、無視に加えて、何か発言をするとその倍の量の否定のことを浴びせられて、自己肯定感がどんどん下がっていった。

 


正直毎日自分の存在を否定される日々はほんとに辛く、何度も「自分がこの世にいなくても世界は回るし、大丈夫だ。」って思いに駆られた。

 


それだけで?と言われそうな気がしてきた。

まだまだある。

 


全無視、否定、からかい、陰口から堂々たる悪口、手を出されたこともある。

人が少しでも経験したことがあることを一通りは経験しているつもりだ。

それを中学卒業までの5年という短いような長いような期間で、連続していろんな人からされていた。

全て自分に対するバリエーション豊富な否定たちだ。

さすがにメンタルがやられてしまう。

 


心の拠り所なしで経験すべきものではなかったように思う。

 


家では相談出来なかった。

「学校は毎日行って当たり前」って価値観がある人たちに、学校に行きたくないって言えなかった。

 


幼少期から気を遣いすぎたことも祟っていたのかもしれない。

限界がくるまで自分に嘘をついて乗り切ることにした。

 


とりあえず家では隠さなきゃ。

家では口角を上げて、何事もないように振る舞うことにした。

 


今では、ありがたいことにニコニコしてるという印象を持ってくださる方がいらっしゃるが、この頃からの習慣だったように思う。

辛かったが、これは今考えるとかなりプラスだった。

 


否定されながら、自分にも嘘をつきながらで、自分が実際どう思っているのか見えなくなっていた。

 


乗り切れたかどうかはよくわからないが、今も健康で生きていることを思えば乗り切れたと言っていいのかもしれない。

 


その頃に自分に前向きな言葉をかける理由が見当たらなくなって、でもミスがあればたくさんの否定語を浴びせる、自己否定しかできなくなっていた。

 


今でもたくさん自己否定をしたくなるときがある。

それではダメとわかっていても、正しい処置がわからない。

 


10代始めは見た目から中身まで、ずっと自己否定していた。

見た目については、その頃に自己満足していればOKという思考に切り換えることで否定から逃れた。

 


それに対して、中身、特に自己肯定感の無さは今でもずっと克服できていない。

 


でも、そんな私でも全く変えていない部分がある。

考え方というか、スタンスだ。

小さい頃からいきなり話しだすっていうスタンスは変わっていない。

大人の注目を引く方法を、これしか知らなかったせいだ。

今でも自分の話を聞いてほしいときはそうする。

コミュ力の無さが滲み出ている気がする。

 


とっつきにくいと思われているかもしれない。

人が思っている以上に、人からどう思われているのかをかなり気にしている。

割と寂しいので、ぜひ声をかけてほしい。

いろんな人とお話ししてみたいものだ。

 


あと、ありがたい言葉を貰ったら、言ってくれた人にきちんと感謝するを心がけている。

貰ってからいやいやと否定すると、くれた人に失礼だし。

 


自己肯定感の低さはこれからもついて回り、これからも自分を否定してしまうこともあるだろう。

前を見続けて、出来る限り前を向いて生きたい。

 


心のお洗濯はおしまい。

 


四半世紀の折り返しもたくさん楽しいことやるぞー!