ラップの話
大学生の頃だった。
午前中の授業を終え、午後の授業が始まる前にいつも通り食堂で昼食を摂ろうとしていた。
食堂で何かを買って食べることもあるが、少し金欠気味だったので、昨晩の残りをタッパーに詰めてラップをかけて蓋をしたものを持参していた。
食堂内のレンジで温めて食べよう、蓋は取ってラップだけでチンしよう、タッパーにラップをかけたままレンジを開けた。
指が温めのボタンに触れるか触れないかといったときに、
「ラップはチンしちゃダメだよ。」
小さな男の子の声が聞こえた。
振り返ると、小学校低学年ぐらいの男の子が立っている。
状況が把握できないでいるのを横目に、男の子はもう一度、「ラップはチンしちゃダメだよ。」と言った。
大学に小さな男の子?と疑問に思ったが、それよりも2回聞こえた「ラップはチンしちゃダメ」のフレーズの方が気になった。
「どうしてラップをチンしちゃダメなの?」と聞くと、「ラップが泣くからだよ。」と答えてくれた。
なるほど、この子は想像力の高い子でラップを擬人化しているのか~と思って、「そうなんだ~、じゃあ...」と言いかけたときに、
「泣いた後、怒って爆発しちゃうんだよ」と男の子は言った。
...頭の上に巨大なはてなマークが浮かんでいた。
聞いたことがないし、爆発するところも見たことがない。
「それって絵本か何かで読んだの?それともテレビかな?」
「ううん。」
「夢とかじゃなくて?」
「僕、この目でちゃんと見たんだ。」
男の子のまっすぐな瞳を見ると、どうも作り話ではなさそうに思えてきた。
「なんでラップはチンされたら泣いちゃうの?」興味本位で聞いてみる。
「教えてほしい?」
「うん、気になっちゃって。」
「どうしても?」もったいぶっているのか。
「どうしても!... 教えてくれる?」
「うん、いいよ。でもここじゃ嫌だ。」
「たくさん人がいるもんね。どこにしようか...」
「お姉ちゃん家がいい。」
「一人暮らしだし散らかってるから困るなー。他どこか...」
「じゃあ教えない。」
...好奇心に負けた。午後の授業をサボることになったが、男の子の話を聞きたい一心で、結局家に連れて帰ることにした。
部屋に入って座るなり、待ちきれずに
「教えてくれる...?」こちらから切り出した。
「ラップがなんでチンされたら泣いちゃうかだったよね?」
「うん。」
「お父さんが教えてくれたんだけどね、ラップって悲しいものなんだって。」
「悲しいもの?」
「ラップって誰が作ったか知ってる?」
「誰か発明した人がいるのかな~」
「違うよ。プラスチックの先祖が作ったんだ。」
「先祖?先祖がいるの?」
「うん。その人がね、今あちこちで皆が使っているプラスチック製品を作ってね、ラップが出来たときには、『食品をホコリたちからカバー出来るもの、これからとっても便利になるだろうな~!』って喜んでたんだ。」
「そうだったんだね、初めて知った。」
「でも、ラップって温められたり冷やされたり。使う人のいいように使われて、要らなくなったらポイッて捨てられちゃって終わりなんだよね。だからそうやって終わっちゃうのが悲しくて、泣いちゃうんだ。」
「なんだか悲しいね。あっでも、チンされたら泣いちゃうんでしょ?冷やされたときは泣いちゃわないの?」
「うん、泣かない。」
「どうして?」
「肝が冷えてるから泣かないんだって、お父さんが言ってた。」
「お父さん、何か言い間違えてるんじゃないかな。冷えると冷静になるってことなのかもね。」
「冷やされてるときは大丈夫なんだけど、チンされたら泣いちゃって、なんで自分たちがこんな目に遭わないといけないのかって怒っちゃうんだ。」
「そっか... ラップからしたらひどい話だもんね。」
「許せない...」
「えっ?」
「僕はラップにそんなひどいことをする人たちがほんとに許せない!」
「なんでそんなにラップの気持ちになってあげられるの?」
「僕もラップだからだよ。」
... 理解が追いつかない。
「いや、人間じゃ...」
「見た目だけね。」
「どっからどう見ても人間...」
「人間のフリをしてるんだよ。ラップで生きていると悲しいことしかないからね。お姉ちゃんの家のラップ、今どこにもないでしょ?」
たしかにキッチンあたりに置いていたラップが見当たらない。
「君は私の家にあるラップってこと?」
「そういうこと。お姉ちゃんよくラップをかけてチンしてるでしょ?僕、我慢できなくてさ。」
「ごめん... ひどいことしてたよね。」
「僕のお父さんもチンされるのが嫌で、たくさん怒っちゃって、爆発しちゃったんだ。僕の目の前で。」
男の子は声を上げて泣き始めた。
その様子をただ見ていることしかできなかった。
しばらくすると泣き止み、
「許せない...」
「えっ?」
「僕、お姉ちゃんのこと絶対に許さないんだから!」
怒りの矛先がこちらに向いた。
「えっ、待って!ほんとにごめん!今までラップの気持ちをちゃんと考えられてなかったよね!ごめん!」
「何回ごめんって言ったってダメだよ。僕もう止められないんだ。」
「爆発しちゃうの?」
「ううん、僕はまだ子どもだから爆発できないんだ。だから代わりにね...」
何も触っていないレンジからいきなり煙が出てきた。
何も見えない。
しばらくすると煙が治り、ラップを握りしめたさっきの男の子がいた。
いたのを確認した後、すぐに身動きが取れなくなってしまった。
見ると、男の子に足元から上半身にかけてラップを巻かれていた。
「ごめんってば!もう許して!」
何度叫んでも、男の子は「お姉ちゃんのせいだ」と連呼しながら、椅子の上に立って、どんどんラップを巻いていく。
もうすぐ口元だ。
このまま巻かれて死んでしまうのだろうか。
男の子が口元にラップを巻きかけたときに、
「もう十分でしょ?ラップを外してあげなさい。」
優しい女性の声が聞こえた。
「お母さん...?」
男の子のお母さんがどこかにいるようだった。
「でもね、お母さん。このお姉ちゃんはね...」
「たしかにそのお姉さんも私たちにひどいことをしたわ。でも、お姉さんだけが悪いわけじゃないの。わかった?わかったらいい子だから、お姉さんに巻いたラップ、外してあげなさい。」
納得はしていなさそうだったが、ラップを外してくれた。
解放されてよかったが、疑問が残った。
「ひどいことをしてしまってすみませんでした!ところで、お母さんはどちらにいらっしゃいますか?」
お母さんらしき人の姿が見当たらない。
「ここですよ。」
一本のラップの芯が足元にぶつかった。
そっか、男の子の元の姿はラップだったから、お母さんもラップか。
静かに納得しているところに、
「こちらこそ、うちの子が危ない目に遭わせてしまってすみません。分別がつかなかったようで。」
お母さんから謝ってくれた。
でも助かったからいいが、分別がつかないの度を越している気がする。
気を取り直して、
「これからはラップを大事に扱っていきます。もうあなた方をチンするとかひどい目には遭わせませんから。」と約束した。
「一人でもそういう人が増えてると私たちも嬉しいです。これからもよろしくお願いします。あなたみたいに約束してくれる人をこれからも増やしていけたらと思っていますので。それでは。」
レンジから再び煙が上がった。
煙が治ると、お母さんも男の子の姿もなかった。
身に起こったことが現実か否かはわからないが、ラップをチンしないと約束したことは事実だ。
記憶がそう言っているので間違いない。
その出来事以来、レンジで何かを温めるときにはラップをしなくなった。
ラップを使わなくなり、家にストックで残っていたものもあったが、処分もしていないのに、いつの間にか家からいなくなっていた。
たぶん同じ出来事の経験者が他にもいるかもしれない。
ラップも人も過ちを犯していないかと静かに祈るしかない日々を今でも過ごしている。